昭和50年04月18日 月次祭
前講で光橋先生がお話をしておられました。こまごましい所は聞き取れませんでしたけれども、無常の風は時を嫌わぬと言うが、金光大神の道は無常の風が時を嫌うぞと御教え下さってありますがというお話で御座いました。成程金光大神の道はそういうおかげの頂けた事を、まぁお話しておったんだと思うんですけれども確かにそうであります。昨日一昨日があのように盛大にそれこそ麗しく、お湿りの中に静かなムードと申しますか、本当に心ゆくばかりの有難いものを満喫させて頂いての御大祭でございました。
この度の御大祭には、御大祭を頂き頂き、それこそおかげを頂いておられる方達のお礼のお届けが、昨日から今日にかけて、いくらもあっております。何というその有難い事だろう。例えば大熊さんという方なんかは、長年の喘息がそれこそ身体がしびれるような感動であったという。お話を頂き頂き。それがおかげを頂いて一っつもそれから咳が出らなくなった。勿体島の原さんの姪御さんの、小西さんの所の御主人などは、長い間ずっと微熱が続いておった。
大変心配しておられましたけれども、それっきりおかげを頂いて平熱になったと。不思議な話があるですね。確かに無常の風は、時を嫌わぬと言うが、金光大神の道は無常の風が時を嫌わす。今日は皆さん御祭典の時に、大祭の時のような大きな鯛やらブリやらが、今日は御三宝五台お魚がございましたですね。四台一台は下の方に。あのお供えをなさった方は、御大祭を一日間違えて、昨日お供えを持って来た。
一日間違えた。その方なんかは、東京に御商売の用事で行っておられて、あちらで倒れられた。そして医者も難しいと言うので、親戚を呼ばれる。また自分が日々稽古をされておられる教会の先生は、非常に霊徳が高いことで有名な先生でありますが、「この度は、生きて帰って来ると思うな」と家族の者に言い渡されたと言う事です。そこで「合楽にお願いをしてくれ」という本人の願いで、直ぐ姪御さんにあたる方が、お願いに来ました。丁度一月の二十四日の日でございました。
北野の上滝さんところの宅祭りのおかげを頂く為に、私はいつも四時半にキチッと迎えに来るのですから、用意して待っておりました。待てども待てども来ません。次々とお参りをして来る方が、「いやあ、先生おって頂いてよかった」と言う様な事で御座いましたから、「遅くなったのもおかげだな」と言うて、迎えに来たから立ち上がろうとするところへ、駆け込むようにして参って来たのが、その方の姪御さんでした。
初めて会う方です。「親先生でしょうか」「はい、私は大坪ですが」実は叔母が東京へ行って、こうこうでございます。「医者も助からん」と言うそうですし、また○○教会の先生も、「この度は、生きて帰って来ると思うな」と、言わば、死刑の宣告を受けたようなものである。それから私は、神様へお願いを、お願いというか、出かけでございますから、そのお賽銭箱の前で御祈念させてもらった。
そしてね「おかげ頂くよ」と申しました。なぜってね私がねあなたが、まぁ五分間遅かったら、私はもう自動車でここを出とったんです。所が神様は今日は一時間余りも、ここで待たせて下さって、そいうお取次を願う氏子の為に、待たせておって下さったように私は思うんだ。そのように素晴らしいタイミングの中に、御取次させていた頂いとるのだから、おかげ頂いて帰って来るよ。その事をすぐ東京へ電話を掛けて、本人も大変喜ばれた。それから二十日余りして退院。おかげを頂いて元気で帰ってきた。
今度の大祭にはどうでも博多の魚屋市場の、まぁ女ながらも親分ような仕事をなさっておられる方なんです。東京の方への魚はこの方の手をくぐらなければ、東京にはお魚が出らんというような方なんです。「今度の大祭にはどうでも、お魚の鯛とブリのお供えをさせて頂きたい」と、その時も言いござったけれども、これはまぁ当てしとる訳でもございませんし、お供えはたくさんございますから。所が先方では一日間違えておった訳です。言うならば無常の風に金光大神が時を嫌わせて下さった。
助からんはずの者が助かった。そのおかげその喜びがあの鯛と、あのブリに現れておるのでございます。今日は亀井県知事の代理の方という方が、お礼参拝をして来ました。「本当に前もそうでしたが、この度もおかげを頂いて、もう本当に御理解をその時に頂いた通りの事におかげを頂いて、本人も大変感銘深く致しております」と言うて、お礼のお届けがあった。これは県知事選挙の開票があった朝でした。
竹内先生から電話が掛って来た。おかげを頂いて佐賀の方ですから、池田さんですかね池田県知事おかげで当選のおかげを頂いた。只今テレビで御挨拶が御座いました。それを聞き終わって、御礼のもう先生、池田さんのお届けをさせて頂いた時に、今度は接戦である事が分かっておった。それで私としてはどういう心掛けでというお伺いであった。だから私が「公の心と天地日月の心だ」と言うてやりました。そしたらその事をですね、只今テレビでお話になった時に、その事を話されたと言う事でございます。
昨日は久留米の方で、市会議員の選挙が近いうちにございます。昨日がどこも一斉に事務所開きだった。その事をお願いに参りました。いつもここの楽の御用を頂いておる田中さん、今日は来ておりませんでした。田中澄子さんの娘さん。それが選挙の事務所に雇われておる。それで昨日それこそ本人に示現活動をしたわけです。「私共も皆一生懸命お祈り添えをさしてもらいよるから、合楽の金光様にいっぺん参って下さい」「そんなら連れて参ってくれ」と言う事で電話が掛かって来ました。
田中さんからですからそこですから、直ぐかと思うておった。所が何の善導寺の方から参ってきてる待っておったら参って参りました。電話を受けて私はここでその方の事をお願いさせて頂いておりましたら精進用の白黒の水引を頂いた。あいた今度は落選ばいなと思うた。けれども折角お願いに来たのだから尚またお願いをさせて頂いておりましたら、神様が白と赤の水引に段々こう色が変わって行く所を頂いた。変わってしまったのじゃない。はぁ是は願い一つでおかげ頂くなと思わせて頂いたの御座います。
それで私が申しました「例えば大学の試験なんかでも、九十点なら九十点というのが、大きい大学になると百名からある、同じ点数がだからどれを取る要素もない訳ですから、まあ抽選なんかと言う事になるのでしょうけれども。それならお取次を頂いてお願いをしておるならば、私が神様にお取次させて頂いておるならば、その九十点の百人の中の何人選ぶかは知らんけれども、絶対おかげ頂くよ」と私は申しました。
けれどもそれが八十点ある場合は仕方がない、これはご無理というものである。こう言う様な事でもです、言うならば入学出来ないはずのが入学が出来る。当選するはずのものでないのが、当選のおかげを頂く。死ぬはずのものが死なんですむと言う様なおかげこそ、私は確かに金光大神の道は無常の風に時を嫌わすほどしのお働きを見せて下さる信心だと思うのでございます。
今朝から田主丸の小野産婦人科の院長であります、小野先生がお礼参拝をして来てからお届けでございます。親先生本当にいつもの事ながら恐れ入ります。私はどこどこまでも医者としての立場、医学の立場で患者に接しさせてもろうて、その上人間の知恵力ではどうにも出来ない所を、お取次に御縋りをしておるので御座いますけれども、この度の公子先生の場合なんかは、もう本当に恐れ入ったことでした。
家内と二人で「まぁ本当に金光様の御信心を頂いておると言う事は、なんという有難いことであろうか」と言うて、今話をしながら出て来たと言うのです。御大祭の時も申しましたが、大体十三日が予定日であった。けれども本人達の願いが、どうでも御大祭を頂いて、その後なら、いつおかげを頂いても良いから、どうぞ御大祭には典楽の御用を頂いておりますので、そのお願い。その朝も少し催しがあっておりましたけれどもお願いをして、病院に行かなかった。
それで御用を頂き終わってから早速参りました。そしたらすぐ帰って来ましたもん。いわゆる大体が異常妊娠で逆子でございました。それにとにかく異常にお腹が大きすぎる。とにかく、その赤ちゃんが太り過ぎとる。そして小野先生がえらい悪う言うげなもん。「十三日に産まるるとば、あなたがいらんことを神様にお願いするけんで、赤ちゃんが太り過ぎとる。たった三日でそげん太るもんじゃろうかと思うばってん、そげん医者の立場では、そげん言う訳です。
そして帰って来て言う事がです。レントゲンで見た所が、とにかく手ばこんなふうにしとるげなたい赤ちゃんが。だからこういうのはもう絶対開腹手術をしなければいけない。腹ば切って出さなければいけないちゅう。だから今日朝から断食をしてやってこいと言うので、家の方では手術の準備をして公子先生が行くのを待ておった。それで本当言うたら自分でも手術がしようごとないし周囲の者も皆そうですから。親先生がもう手術をするったっちゃ「すんな」と言うて頂くもんとばっかり思うておったらしいんです。
所が私がね「お医者さんにかかったなら、お医者さんに任せる事が神様に任せる事だ」と私が任せなさい、小野先生が切ると言うなら切って貰いなさい。あなたの事なんか全然思わんじゃったと。ほんなこつですよそれがおかげを頂いて安産のおかげを頂いた。それからすぐ産気がついてそれから間もなく、先ほどお母さんがお礼に出て来ましたが、どげん考えったちゃ奇跡お尻から出て来たそうです。
しかも軽いお産でおかげを頂いた。私はその時にすぐ、昨夜思わせて頂いてお願いさせて頂いた事は、こら公子先生が為にですその隣室ですか、その子癇になられた方は必ずおかげ頂くと思ったですね。その為だからだから願いました。だから私は小野先生が今日参って来た時には、公子先生のことよりもその子癇の方は、「どげんでしたか」と「それが不思議におかげ頂いてから、おかげ頂いております」と。
「そうじゃろうな。これはもう公子先生が為に、急にあんたが手術するちゅうけん、神様がそげな風に演出しなさったとよいう。「そのへんの所が親先生、もう本当に医者ではどうにも分からない所です」とこう言うんです。現代の医学私共医者の立場としては、どうでもこういう形をしておる子供の場合は、絶対しなければできない筈のが、おかげでできた。これなんかも、無常の風に時を嫌わして下さった。
十三日に産まれる筈のを、例えば願いによって、大祭のおかげを頂いて、大祭の御比礼を受けながら、そして病院に入院が出来る。そして向こうにはそういう手の込んだ演出までしてあって、安産のおかげを頂いた。今朝から赤ちゃんを見に行ってから、末永先生が言うことです。「親先生おかげを頂いて、もう珠のような男の子が産まれました」「そらあんた、自分の子ば珠の子じゃなんてん、そら人が言うことであってから、あんたがそんなこつ言うたらいけん。」
まあ本当にねぇ、私は親バカチャンリンと思うたんですけどもね。そら初めてお父さんになったんですから、それこそあなたのことは思い出しもせんじゃったばってん、腹も立たなかった。もうとにかく有難かった。もう有難い時にはそういう風に言われたちゃ腹が立つ所じゃない、有難いばっかりです。そうじゃろうそうじゃろうじゃったでしょうねやっぱ。そして珠のような男の子が産まれとるもんですからね。それに刺激されてから「親先生今日から私は、合楽の悪役を一人で承ります」とお届けをしました。
昔からここでは、久保山先生が教えしゃった。家の家内と二人「本当に奥様、私とあなたがいっつも悪い役でもうよか役は、繁雄さんと秋永先生に決まっとる」と。だから久保山先生の後の役を、自分がこれから承る。どういうふうにそら恐らくは親先生が信者一般に言いたい所だろうけれども、一人一人に悪口を言わんから、私代表で悪人にして頂いても良いというお届けがございました。
愈々馬鹿と阿呆でおかげを頂きたい。名前を頂きたいと申しますから、私はその事を神様にお届けさして頂いたら、今お父さんがお願いをする、悪役にならしてもらう。馬鹿と阿呆でやらして頂くということを頂いたんです。とにかく馬鹿と阿呆と言う事は、どんなに例えば悪人にされても、悪口を言われてもです。腹を立てないむしろお礼が言えれるような心の状態を言うのですから、心が愈々大きく豊かに、大きくなる事だと思いましたから、私は信太郎という名前を頂ました。
信心の「信」信心「太い」「末永信太郎」です。という命名のおかげを頂いたわけです。これなどもやはりいかに神様が、今日産まれる筈でも例えば願いによって、三日間ですか四日間、言うならばおかげを下さっておる。是は私の父の場合でもそうでしたよね。是はお国替えの場合であっても、御大祭が済んだ御大祭の喜びをいっぱい頂くなら、御直会まで頂きながら、そして最後に久富先生と繁雄さんのお祝いの言葉を受けて、本当に良かったおかげを頂いたでそれから二、三時間後には亡くなっております。
しかも大祭の翌日です。まぁ朝でしたからやっぱり翌日と言う事になります。その辺の所は、この神様のお働きを受けるとです、その辺が自由自在だと言う事が分かります。無常の風がここまで来っとても、向こうに押し返して下さるほどしの働きというものが、おかげが頂けるれのです。私は昨日親教会へお礼参拝総代さん方と。一緒にお礼参拝に出らしてもらいました。皆さんも待って頂いておるから、立とうとしよる所へ、先ほど申します、田中さんから電話が掛かって来た。
「待ってくれ」ちいう電話。それで待たせて頂いておる時に神様がね、こういうお知らせを下さったんです。今言う精進の水引と同時にですね「御神殿を明るうしておけ」と頂いたです。それからさっそく末永先生が座っておりましたから、内殿と外殿の方に電気を点けさして頂いた。待つ間もなく二人がやって見えました。それこそ今度は本当に当選が危ぶまれる状態にあった。小さい町から一人の時には、充分おかげを頂いたけれども、今度は二人立たれると言う事になったので、言わば接戦だろうと。
そして中々人気のある方らしいんです。だから言うなら心も暗くなってるから、神様は御神殿を、ここは電気がないと薄暗くしてますからね。それで御神殿にパァッと電気が点いてこちらから拝むと、本当に大祭のまだお供えがいっぱいしてあって、とにかく心が賑やこうなる。そして只今のような御理解を聞いて帰られて、心がホッとされたと言う様な状態であった。
それから私はお礼参拝さして頂きましてから、親教会でのことでございました。色々お下がりを持ってまいります。その中にあの金樽の菊正宗のお供えが、いつもございますからそれを一つ持って行くんです。他のは全部お下がりでございますから、勝手の方にみんな持って行った。所がその菊正宗だけはまだお供えしてなかったんです。包装がしたままであったんです。
ですから私は先生に「このお神酒はお供えをさせて頂いておりませんから、昨日がお月例祭ですから、どうぞ神様にお供えして頂くように」と言うて申しまして、頭を下げたとたんでした。その金樽がね菰包みのね昔銘酒は、今でもそうですけど菰包みになっておる。菰包みの綱にねそのエボがついとる。エボちゅうのは荷札の事です。その荷札をですね、プツッとこう切った所を頂いたんです。
私はもうびっくりしました。もしどうでしょうこれをどこどこに送らなければならないのに、品物がここにありましても、エボがなんかったんでは、荷札が付いていなかったんでは、どこへ送って良いか分からない。言うなら神様の方へ送らなければならない。その神様へ送るエボが切られる様な事を、私が言うておると言う事である。これはお供えをしておりませんから、どうぞお供えして下さい。
成程御神前で御三宝の上には上げてはいないけれども、これをお供えした人は、真心を持ってお供えをしていると言う事は、例え御神前に出ていなかっても、もうお供えはお供えだと言う事なんです。合楽の皆さんが真心込めてお供えをなさるのは、いちいち神様にエボが付いとるとじゃけん、神様が受けて下さりよるとですよ。それはお供えをしていなかってもやっぱそうなんですよ。お供えというて真心をもって来とるんだから。御三宝の上に上がっていなかってもやはり神様は、受けておって下さるんだと。
私はその事を分からせて頂いた。それから私はすぐあちらの御神前に出てから、そのことをお詫びさせて頂いた。折角真心を持ってお供えさせて頂く、真心を持って御用させてもらう、奉仕さして頂いたものの中に、そういう不純なのがあってはいけないと言う事でございます。そこで私は思うのですけれども、私は神様に嘘を言って居る様な事なんです。所がです一時間ばっかり前には、ここで議員の方がお参りをして来る。
言うなら演出までしてと言う事は、ここは普通暗いのに、それをそのままが神ながら、けれどもそこに電気の一つも点けておけと言う事は、神様が相手の心を明るくしてやる為に、ごまかしなさるようなもんなんです。ははぁ神様もこういう手を使いなさるな、中々抜け目がないなと思うようにある。かと言うてたった私がです。もうお供えしたものを「どうぞ今日の月例祭にお供えして下さいと言うておることがです、気感にかなわない。ここの所で、お互いが私はおかげを落としたり。
又は思い方がそういう一つの教えの中にも、随分普通から言うたら矛盾した御教えがあります。「信心の稽古をするのに、日傭取りやら病人が家におったりしたんでは、参って来ることができんから、いつもまめな時に参って来い」と教えられるかと思うとです。それを放っておいて参って来るような心になるとおかげになると仰ってあるです。矛盾でしょう。だから実を言うたら、どちらも本当なんです。だからそれを私共がです、自分の考えで、今朝から私が申しました、昨日が反省会でした。
いろんなよりよい御大祭をこの次仕えなければなりませんから、いろんな反省がありました後に、私が少しお神酒もすわってましたから、少し私がひどく言うた事があるんです。例えば十三日の御用日があの様なお湿りであった。だから内部だけはいつも出来ない所まで出来るようなおかげを頂いたけれども、外部が全然出来てなかった。本当言うたら外装が出来てないから、翌る日のお天気の日に皆が本当に志のある人ならば、外の御用が出来てないからというて出てくるのが本当なんです。
けれどもまだそこまで行き届いていないから、家に沢山若い者もおるし、修行生の方達もおるし、先生達もおるからあんた方がしなきゃいけない。それになんぞや例えば桜井先生が見えたら、桜井先生に「あんた、神饌室のお掃除をして下さいて、あんたが言うたげなじゃないか」と言うわけです。所がその末永先生いわくです、「私は言いません。桜井先生が、何か御用があるならさせて下さいと言わっしゃったから、私はそげん言いました。例えば信者をつかまえて、あれをしてくれ、これをしてくれの事は、口が裂たっちゃ言いません」とこう言う訳です。
久富先生が隅の方に座っちゃった「末永さん末永さんさん、そげなこつばあんた親先生にば言うちから」と言う事ですけれども。そりゃしかし末永さんが言うとがほんなこつです。私が誤解しておる訳ですけれども私が末永さんに言うのもです。そこに居並んでおる、昨日反省会に集まっておられる方達にも聞いて頂きたかったのです。そう言う所をです例えば久富先生がどういうふうに言われても、いつの場合でも「はい」と御自身が言われるのですから「末永さん末永さん」とこう制止された訳なんです。
昔から言われております。例えば取次者が白の物を赤と言うても「はぁ是は赤ですなぁ」と言うて見よると赤になるっち言う「是は先生赤ですよ」と言うたんではおかげにならんと言われるほどしに、純粋な心が求められるのが信心であります。そこで矢張り今日の所にとにかく私は、合楽の悪役を是からは承りますと言う様なお届けになったのではないかと思うのです。愈々信心は本当な信心。
私今御装束をつけさして貰いよったら、どうしたか知らんが私いつ書いたのかも知らんけれども、小さいメモ紙に書いておるのが出てきた。それにはこう言う様な事が書いてあった「その原因があり又更にその原因があるのです。本当の本当の事を愈々追求する事が信心です」と書いてある。何でもどう言う事にでも必ず原因がある。しかもその原因のまた原因がある。本当言うたら又その原因がある。所謂「金光様の御信心とは、愈々本当な事から本当な事を追求して行く事が信心であります」と書いてある。
ですから私どもがこれが本当だと思うてもです、それが師匠がそう言うならば、神様がそう言うて下さるならば「あなた、一時間前に、嘘を言うても良いように言うといてから、一時間後にはもう嘘を言うたと言うて、そのお前のとは神が受け取らんと言う様な事を仰っとられるが、それは大体どういう訳ですか」じゃなくて、その時はその時が本当であり、その時はその時が本当なんだということ。
そういう受け取り方の出来れるような信心をさせて頂いて、そのおかげに表れて来るのが、いよいよ本当な信心。今日皆さんに聞いて頂いたおかげ話の全部が、本当なおかげなのであります。その本当なおかげを、愈々頂いて行く為に、愈々本当から本当なことを追求して行く、その過程においてです。赤の物を白と言われる場合もある、白の物を赤とまた言われるような事もあるけれども。
いうなら言葉は悪いですけれども、ご無理ごもっともでただ頂くだけではなくて、本当に親先生があぁおっしゃるが、白でもそれが赤と仰りゃ段々見ておりゃね、本当に赤になって来るほどしのおかげを頂きたいと思うのです。そういう信心からでなからなければです、私は無常の風に時を嫌わすというほどしの、助からんはずの者が助かる、出来ないはずの物が出来るようなおかげには繋がってこないと思います。
どうぞ。